閑居の窓から見えるもの はてな別館

思った事を、好きなように

勝利を求める愚か者

悟って心身脱落し、脱エゴを果たせば、人は楽になる。何故なら、エゴこそが諸々の苦しみの根源だからだ。悟りとはエゴの死であり、人が悟る手前の段階においては、エゴはもがき苦しみ、断末魔の悲鳴を上げる。

禅の世界では、それを疑団とか、大疑団などと呼ぶ。それは人が耐えられるようなものではなく、エゴと共に死ぬしかないものだ。別の言い方をすると、悟りとはエゴと心中し、何者でも無い「意識」だけが生き残るようなものなのである。

エゴを殺す方法は二つある。一つは、狂ったように行き急いで破滅する事。もう一つは、真綿で絞め殺すかのようにエゴを枯死・餓死させる事だ。

 

私は捨て身の探究の末に狂死したタイプだが、線香の灰が落ちるかのように音もなく脱エゴを果たす者も居る。どちらかを自分の意志で選ぶ事は出来ない。運命について論じられるようになるには、この領域を経験する必要がある。

本来、悟りについて語ろうとすれば、こういう血なまぐさい話になるものだ。故に、本当に悟った人間は、悟りの話をしなければならない状況になると、必ずと言って良い程、口ごもる。

他人事とは言え、エゴと共に死ぬ話など、聞けたものではないからだ。使う言葉を選び、キチンと脱臭しないと、逆に人を悟りから遠ざけてしまう事になりかねない。

 

繰り返すが、悟りの本質はエゴの死であり、自らのエゴを大切に思っている内は、絶対に悟りなど訪れない。当たり前の話だが、誰だって大事なものは捨てられないのだ。自分自身や、エゴより大事な「何か」が出来ない限り、悟りを口にする資格すらない。

上部だけ取り繕っても無駄である。十分に成熟した理性が、生存本能を上回らない限り、自己超越など不可能だ。本来、成熟とはこういうものなのである。

視野が狭く、ワガママばかり言っている幼稚な人間は、絶対に悟れない。未来永劫、この薄汚れた星で生まれて死んでを繰り返し、好条件を求めてより深い狂気に飲まれていく定めだ。

 

これを愚かと言わずして、何と言うべきか。 

 

エゴは道具

本質的には、善悪などない。善悪など、見方によってどうとでも転ぶ、いい加減なものだ。この世に真理など無いし、無いものはいくら探しても見つからない。

真理無き世で我々が為すべきは、少しでもマシな状態を求める事だ。

人の本質は獣であり、理性ではエゴに太刀打ち出来ない。だが、それ故に向上心を持たねばならない。

 

その為に「エゴ+欲望=破壊」の法則と、人類が地球を掻き乱すトリックスターの役割を担っている事を知らねばならない。

 

個人的には、原罪と言う言葉は好きではない。この世に罪など無いし、生まれながらの罪人も居ない。

だが、向上心のカケラもなく、学びや自己抑制を拒否し、無知で愚かなまま破壊の限りを尽くす迷惑な輩を放置する訳にはいかない。

崇高な利他心であれ、自己中心的なワガママであれ、それを貫き通すのはエゴの役割だ。我々はエゴの特性を知り、使いこなさなければならない。

 

愚かな他人の低劣な望みは、叩き潰して構わない。ただし、それを善などと思うな。闘争に正統性など、あるはずもない。

理由や動機は「胸糞悪いから」で十分だ。その際、心に歪みが無いかだけチェックするべし。

手段も選ばなくていい。ただし、必ず勝ちなさい。

 

悪意と暴力が支配する世の中より、善意と利他心が支配する世の中の方が、幾分マシと言うものだ。

理想郷、仏国土など実現し得ないが、夢を見る事くらいは許されていい筈だ。

 

 

求道者に必要なもの

悟りを求めるのであれば、何よりもまず、真実のみを求めて止まない心を持つ事が必要だ。

 

この「真実のみ」と言う所が重要で、言い換えると、真実以外は何でも差し出せると言う事だ。

 

ボーディダルマの弟子であり、禅の二祖・慧可は、弟子入りの際に片腕を斬り落とす事で求道心を示したと言う。

 

 

だが、これは慧可のド根性を称えるエピソードではなく、彼にはこうまでして真実を求めるだけの理由があったと言う話だ。

 

求める答えが分からないのは、苦しい事だ。その苦痛が大きければ大きいほど、求道心は強くなる。

 

苦痛を育てるのは、観察の目だ。世の現実や裏表を深く観察すればするほど、何が本当なのか分からなくなる。

 

 

だから仏教ではヴィパッサナー冥想を行うのだ。しかし、人は冥想によって悟るのではない。

 

冥想によって高められた観察力によって、真実を渇望するようになり、その末に「本当は何もない」と言う真実に目覚めるのである。

 

 

生き辛さを超えた、生きられなさ

カルロス・カスタネダの著書の中に、反復なるテクニックが存在する。

 

これは過去を思い出して追体験する事で、いわゆるトラウマを克服したり、精神を癒し高めようと言うものだ。

 

私はこれを実践したおかげで、なんとか普通の人間のふりをする事が出来るようになった。

 

 

もし反復をしなかったら、今頃私は父親そっくりのゴミ人間になっていたか、とっくの昔に自殺していただろう。

父親に自尊心を完全に破壊されていた為、まともな人間関係を構築する事が出来なかったし、発達障害のせいで学も無い。

何せ、殆ど計算が出来ないのだ。1+1=2くらいなら出来るが、二桁の足し算から怪しくなり、引き算ともなるとお手上げだ。

 

計算のみならず、その脳の領域に関係するものは悉く出来ない為、バカ呼ばわりされても仕方ない。

私にも出来る事くらいあるが、出来ない事を見られるとどうにもならない。

つまり、下衆な足の引っ張り合いでは、私は決定的に不利だと言う事だ。

 

発達障害は、脳の一部分が成長しない障害だ。例えるなら、生まれつき頭部が欠損しているようなものだ。

だが、見た目は普通なので、障害者には見えない。

他者からの理解や支援があれば、また違うのかも知れないが、生憎、そんなものは受けた事が無い。

 

生き辛いなんてレベルではなく、誇張抜きで生きられなかった。

何をやろうにも絶対に出来ない事がある為、失敗、失脚が決まっていた。

私は早死にするか、無駄に足掻き、悶え苦しむみ運命を背負って生まれてきたのである。

 

死んで元々だったから、命を惜しまず真理の探求に全てを捧げる事が出来たのだ。

私を見下し、嘲笑し、石を投げてきた全ての人達に、心の底から感謝と憎悪を捧げよう。

私は地球から出ていくが、お前らは地球で這い回っているがいい。

 

 

 

自己喪失こそ真の敗北

強さが自分に打ち勝つ事ならば、弱さとは自分に負ける事である。

自分に負けた状態とは、即ち自己を見失う事である。

自己を見失うと言う事は、欲望や感情に打ち負かされる事を言う。

 

人が敗北を認める時は、敗北感や屈辱に打ちのめされた時だ。

故に、他人に敗北感や屈辱感を与える事が、他人に勝利する為の手段となる。

逆を言うと、敗北や屈辱を認めなければ、他人に負ける事は無い。

 

人間同士の闘争においては、守り勝ちなどあり得ない。

自分の事を棚に上げて、ひたすら相手に敗北感や屈辱感を与えまくるしかない。

それこそが闘争の姿であり、非常に愚かしく、馬鹿馬鹿しいものだ。

 

この手の闘争は、人としての真っ当な感情や、思考を麻痺させるのが鍵だ。

自ら望んで動物以下の存在と化し、欲望と感情のままに暴力による支配を目論む。

悪党やチンピラどもは、こんなくだらないものを望んでいるのである。

 

落ちる所まで落ちきれば、もうそれ以下にはならない。

つまり、落ちる恐怖と、敗北の痛みを味わわなくて済む。

大事なものは、己の命と勝利の美酒のみ。

 

他の全てをくだらないと踏みつけてしまえば、恐いものは無い。

娑婆っ気の無さとは、こういうものだ。

最低の卑怯者に成り下がっても、勝者や強者を気取る事くらいは出来るのだ。

 

 

 

勝者や強者を気取る為に、己自身から目を逸らし、心を麻痺させる。

己自身に目を向ければ弱くなるからこそ、常に他人をこき下ろし、踏みつける必要があるのだ。

今日も世界中の悪党共は、訳も分からず己自身から逃げ回っている・・・。

 

俺より強い奴に会いに行く

昔から私は、自分を精神的に弱い人間だと思い込んでいた。

何故なら、無駄に感受性が豊かな所為で、やたら傷つき易く、涙もろいからだ。

だが、色々な人を見ているうちに、それは違うと思うようになった。

 

蛮勇は強さでは無いし、無神経さや鈍さも強さでは無い。

守るものが何も無いのは強さでは無いし、ケンカで勝てる事も強さでは無い。

本当の強さとは、厳しい現実に歯を食いしばって向き合える精神力を言う。

 

釈迦や、プラトンや、老子も「己に勝つ」事が強さであると述べている。

これは全くその通りで、セコい真似をして他人に勝った所で、何の意味も無い。

そして己に勝つとは、単なる我慢強さを意味しない。

 

真実の探求は、悟りの必須条件である。

故に、真の強さを求める者は、みな探求者と言える。

尤も、真実など無いと言うのが絶対の真実なのだが。